真珠湾攻撃が始まった――福島県と移民

真珠湾攻撃が始まった
――1941年12月7日

ハワイに住む福島県出身者の戦中・戦後

福島県と移民

東日本で最多の背景は凶作や戊辰戦争

 都道府県別の移住民を見ると、福島県は全国で7番目、東日本では一番多い。東北6県でも、ケタ違いの多さだ。背景には、凶作などによる農村の疲弊や戊辰戦争に敗れて海外に新天地を求めようとした開拓者精神など、さまざまな要因があったと見られる。

 1918(大正7)年、富山県魚津から始まった米価の値下げ要求はまたたく間に全国に波及。福島でも福島や会津若松、群山など全県に広がった。いわゆるコメ騒動である。仙台から鎮圧の軍隊までやって来た。

 明治に入ってからでも7回の大凶作を繰り返していた県内経済は、このコメ騒動や生糸の暴落などで31の銀行がつぶれ、小作争議が多発するなど深刻な危機に見舞われた。

 移民の背景に、こうした農村の疲弊があったことは、明治年間の移民数が約6600人だったのに対し大正に入ると約8400人にまで急増していることからもうかがえる。

 さらに戊辰戦争も伏線にあった。日本海外移住家族会連合会(東京)の事務局長、内本義弘さん(46)は「戊辰戦争で敗れ、賊軍とされた人たちが会津地方に残った。明治政府に受け入れられないなど処遇面の悪さもあり、海外に雄飛する機運が高まった」と分析する。

 さらに1898年にハワイに渡り、米国海軍を顧客にして洋服仕立て業で成功した睦合村(桑折町)出身の岡崎音治や、米本土で大規模な農場経営まで手がけたいわき市出身の国府田敬三郎らの成功話が口コミで伝わり、これが海外雄飛熱を一段とあおったのではないかと内本さんは見る。

 「海外に渡って一旗を」という気概は、戦前の満州(現中国東北部)開拓団の数が長野、山形、熊本県に次いで全国で4番目に多かったことにも通じる.

img171.jpg国立太平洋戦没者墓地から見たホノルル市内

 1869(明治2)年5月、会津の松平容保の家臣らがカリフォルニアに渡り、「ワカマツ・コロニー」を開いたのが福島県で最初の移民と言われる。この中には早乙女貢氏の手で小説にもなった、日本で最初の女性移民「おけい」もいた。

 1860年代、ハワイ王国では砂糖産業が成長、それに伴い不足する労働者の受け入れを開始した。84年、日本はハワイ王国政府との間で3年契約の移民を出すことに同意。翌年、日布移民条約を結び、いわゆる「官約移民」が本格化する。しかし、この中に県民は1人もいなかった。

 94年に「官約移民」制度は終わり、民間移民会社が送り出す「私約移民」の時代に。98年には県民の乗った、東北移民第1号船「ドゥリック号」がハワイに向けて出航した。

 ハワイへの移民がさらに米国に渡るという形で、北米移民が始まる。また、ブラジルへの移民船が1908(明治41)年に現地まで行くようになって以来、南米への移民も増え出した。

 同年、米国は日本人移民の入国を禁じたが、米国領土内の居住者の両親や妻子などは入国を認めるなどの抜け道があり、これが写真結婚や呼び寄せ結婚を増やした。この時代は「呼び寄せ時代」と言われる。

 一方、米国本土などで反日感情が高まり、24年、排日法の「移民割当法」が成立、米国籍所有者や旅行者、商人などしか入国できなくなった。