真珠湾攻撃が始まった――市民権

真珠湾攻撃が始まった
――1941年12月7日

ハワイに住む福島県出身者の戦中・戦後

市民権

国際化進む孫や曾孫


img159.jpg 試験官は日系人だった。米国市民権を取るための面接試験。緊張しながらいすに座ると、「日本語でやりますか」と勧めてくれた。その言葉に甘えたが、英語での返事も十分出来たため途中から英語での受け答えに。初代大統領の名前や黒人解放に尽力した大統領の名前、米国の建国史など、質問にはすべて解答出来た。

 試験官が笑顔で「合格ですよ」とねぎらいの言葉をかけてくれた。週2回、夜間の市民権講座に通って英語のテキストにかじりついた3カ月間。夜遅くまで繰り返しテキストを確認した試験前夜。ほっとすると同時に身の引き締まる思いがしたのを忘れられない。1954年だった。
img160.jpg米国の市民権を獲得した証書
 オアフ島で砂糖会社に勤めていた父の呼び寄せで霊山町生まれの宍戸勇さん(89)がハワイに来たのは16歳の時だった。「海外に出た以上はその土地で土になる」覚悟での渡航だ。鉄道建設の作業員やパイナップル工場、クリーニング会社などの職を渡り歩いた。27歳の時、妻カネさん(82)=両親は国見町出身。オアフ島生まれの2世=と結婚、木工職人に弟子入りして技術を身につけた。3年後に独立、木工品の土産店を出し、妻が店番をした。

 そして開戦。FBIに2回呼び出され、調べられた。戦時中は「敵国人」扱い。が、子供は地元の学校に通うなど、生活の基盤がハワイに出来ていた。教育に民主主義が根づいているのもアメリカの魅力だった。

 現在は長女との3人生活。「わずか16年間の日本での生活だったが、いくつになっても故郷は忘れられない。子供のこと泳いだ川の光景なんかは今でも夢に出る」。戦後何度か日本を旅行した際、懐かしいはずの日本の食事が口にあわなかった。「ハワイの食べ物に慣れたんだな」と少し寂しくなった。「でも血は変えられない。私は日本人だ」と今でも思っている。

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 「私は米国人だ」と言い切るのは、25歳で父のいるオアフ島に来た佐藤虎次郎さん(89)=福島市出身。39九年間、砂糖会社で働いてきた。「日本に戻っても自立するめどがない。子供たちと一緒にこちらにいた方がいい」と思い、日系人が帰化出来るようになった52年に米国市民権を取った。6年前に82歳で亡くなった妻タケさん=福島市出身=との間に2男3女。「言葉の通じない外人と結婚するな」と常々言っていたタケさんの言いつけ通り、5人はいずれも日系人と結婚した。

 しかし、13人いる孫のうち、既婚者6人中3人が白人やインド人と結婚している。白人と結婚予定の孫も数人いる。「インド人にはびっくりしたが、日本人がどうの佐藤家の系図がどうの、と言う時代ではない。いい人と結婚して幸せになってくれれば、相手はどこの国の人でもいい。日本人でも悪い人は悪い。外人の中にも親切な人はいる。人柄に国籍は関係ない」

img168.jpg自宅の庭で 孫は全員、「キヨシ」「タカシ」「ミツコ」など日本名のミドルネームがついている。しかし、日本への関心はないという。その孫がたまにやって来ても、英語が伝わりにくくて苦労する。

 4世に当たる、二男の長男の子供2人からは日本名もついに消えた。「4世にもなると生粋の米国人だから自然なこと」と佐藤さん。年に5回、子供たちが持ち回りで開いてくれる家族パーティーに出て孫や曾孫の成長を確かめ、一族の”国際化”に目を細めている。

【ハワイの日系人】

 1920年には11万人だったが、87年には27万人を超え、州全体の23%を占める。この割合は混血(30.6%)、白人(24.0%)に次ぐ多さだ。

 ここ数年、結婚した日系人男性の35%、日系女性の40%の相手が白人やフィリピン人ら他人種というデータもある。