真珠湾攻撃が始まった――沿岸警備

真珠湾攻撃が始まった
――1941年12月7日

ハワイに住む福島県出身者の戦中・戦後

沿岸警備

鉄条網で陣地づくり

img153.jpg  「すべての兵は兵舎に戻れ」――。ラジオからヒステリックな声が響く。12月7日の朝、休暇から続々と部隊に戻る兵士の中には興奮や恐怖で涙ぐんでいる者もいる。

 「日本が攻撃したらしい。困ったことになった。日系人はどうなるんだ」。ハワイ生まれの2世、東海林秀夫さん(74)の胸中にいい知れぬ不安がよぎる。足元にぽっかりと黒い大きな穴が開いたような不安感は当時の日系人すべてに共通するものだった。

 父親は霊山町掛田の出身。「日本の教育を受けさせたい」という父親の思いから、小学生の時に霊山町へ。父親はオアフ島で経営する旅館に「東北旅館」と名づけるほど、日本に、東北に郷愁を抱き続けていた。「息子には故国の教育を」。それは当然の思いだった。

 日本に来て東海林さんは霊山町の小学校から旧制保原中に進んだが、徴兵年齢が近づいたこともあって間もなくハワイに戻った。が、米国も徴兵制を実施。そのうち、ルーズベルト大統領名で「おめでとう、徴兵年齢に達したので入隊です」との手紙が届いた。

 「何がおめでとう、だ」。その時の腹立たしい気持ちは今でも忘れられない。とにかく戦争はいやだった。

 トラック運転手を辞めてハワイの陸軍に入隊して3週間後に真珠湾攻撃が起きた。兵舎では命令を受け、火薬庫から火薬を運び出す危険な作業に従事、夕方からは将校やその家族のための防空壕掘りをさせられた。

 その夜、「日本軍が落下傘で降りた」との情報で、山刈りに駆り出された。鉄砲を担ぎ、ガスマスクを装着して暗い谷間を恐る恐る前進する。

 「日本兵に出くわしたら、やっぱり撃たなければ……」。一瞬迷いが走る。しかし、その迷いを打ち消すような言葉がよみがえった。「お前は立派な米国人だ。ハワイに戻ったら、アメリカのために尽くせ」。旧制保原中の軍事教練担当だった松浦中佐の励ましの言葉である。恐怖心が少しずつ遠のいていった。

 軍隊生活は1年で除隊できるはずが、開戦で延期になる。翌年にはハワイ国民軍に配属された。オアフ島東北部の海岸に派遣され、トーチカを造り、3人1組で6時間ずつ警戒に立つ。

 昼間は海岸線に沿って鉄棒を立て、鉄条網を巻きつける。日本兵が海中を潜って来るといううわさが流れたためだ。体を鉄条網で傷つけ、血まみれになる兵もいた。

 林の中での寝起きはつらい。腐ったグワバにたかった蚊が周囲を飛び交う。蚊に刺されないよう、鉄かぶとの上から網をかぶって寝る。夜なにかが動くのを見つけ「誰(だれ)だ」と誰何、返事がないので発砲したら牛だったということもある。

 その後、日系人だけを集めた第100大隊に招集され、イタリアを舞台にドイツ軍と戦った。任務期間を終えて除隊。自動車修理工として生計を立て、4人の子供を育てた。

 今は福島との縁はほとんどない。しかし、信夫郡鳥川村(現福島市)出身の妻ふみ江さん(70)とはズーズー弁で、霊山の山々に栗やワラビ、キノコ探りに行った思い出話にふける。

 取材の手を休め、ふと窓の外を見ると、庭にサクラの木がある。

 「日本に帰ったら、おれは元気だと保原中の同級生に伝えてくれ」

 その言葉は、日本の軍国主義の教育を受けながらアメリカの軍隊で青春時代を過ごし、戦後を生きたたくましさにあふれていた。

【ハワイ国民軍】

 日本軍の再攻撃があると信じられていたため、ハワイの島々で湾岸の警備を担当した。白人兵が米本土から少しずつ送り込まれると、日系兵は銃などの武器を取り上げられ、防空壕掘りや陣地構築作業をさせられたという。