真珠湾攻撃が始まった――日米開戦

真珠湾攻撃が始まった
――1941年12月7日

ハワイに住む福島県出身者の戦中・戦後

日米開戦

「日の丸の旗は踏めない」


img147.jpg 銀色に鈍く光る翼に「日の丸」が輝いていた。その翼が次から次へと急降下して魚雷や爆弾を落としていく。海が燃え、黒煙が太陽を遮る。艦上で右往左往する水兵たちの姿が見える。

 1941年12月7日午前7時55分(日本時間12月8日午前2時55分)から始まった真珠湾攻撃。高台に駆け上がった日系2世の松井一緒さん(78歳)は信じられない気持ちでこの光景を見つめた。両親は安達群玉ノ井村(大玉村)の出身。松井さんはハワイで生まれたが、8歳から14歳まで福島に帰り、教育は日本で受けた。その日本の飛行機がアメリカに襲いかかっている……。

 「戦争だ、逃げろ」。だれかの大声に、はっと我に返った。言いようのない恐怖心。そして、愛国心すら抱く日本と、アメリカの戦争の開始に衝撃を受けた。前方で繰り広げられる戦闘の向こうに、福島の山河がフラッシュのように輝くのを見た。

 数日後、FBIが3人家にやって来た。すでに日本の領事館関係者や日本語学校教師らが引っ張られていたため、用心して日の丸の旗や兄弟の兵隊姿の写真は地面に埋めておいた。

 「あの日、懐中電灯で日本軍に合図しただろう」「日の丸の旗を踏めるか」「もし日本兵が上陸したら日米どちらに味方するか」などと質問される。「自分の国の旗は踏めない」「親とけんかは出来ない。どちらにも味方しない」。はっきり答えた。

 両親は砂糖会社に勤め、畑でサトウキビづくりに従事していた。が、母親が健康を害したこともあって相次いで福島へ。松井さんだけがハワイに残り、やはりサトウキビ畑で働き、毎月10ドルを福島に送金し続けた。いずれ帰国するつもりだったため、その金を基に、実家近くに田畑や家も買ってもらった。しかし、予期せぬ戦争で帰る機会を失した。

 戦争中も砂糖会社で働いた。白人に「ジャップ」とすごまれる。いつ徴兵されるかという心配もあった。「戦争が終わるまでの4年間の長いこと長いこと」。日本の敗戦はラジオや新聞で知った。涙が出た。

 ハワイにも日本の敗戦を信じない人がいた。いわゆる「負け組」に対する「勝ち組」だ。「負け組」は比較的多くの情報を得ていた日系人社会リーダーたちに多かった。「勝ち組」は「今に日本の軍艦が港に入ってくる」と頑張った。松井さんも心情的にはそのうちの1人。だが、軍艦はやって来なかった。でも「戦争は終わった」と正直ほっとした。

 戦後もサトウキビ畑でひたすら働き続け、今は熊本県出身の妻珠代さんと娘の3人暮らし。これまでに4回、福島に旅行した。「新幹線が出来、上野までの時間が短縮されたのにはたまげた。農家の機械化にもびっくりした。行くたびに驚く。ハワイ生まれだから米国籍だが、私は日本人だと今でも思っている。日本人というよりも福島県人の方がぴったりかな。福島のためなら何でもしたい」

 戦争に負けた日本が見事に復興し、貧しかった福島が想像していた以上に発展したことが何よりもうれしい。

 福島から親類や友人が来ると、まず真珠湾の見学者センターやアリゾナ記念館を案内する。そこでは決まって「日本は戦争をすべきでなかった」と平和への努力の大切さを強調する。それが、日本と、いや福島とアメリカに2つの古里を持って生きた人間の義務と思っている。

【真珠湾攻撃】

 日本の攻撃は第1次、第2次に分かれ、湾の軍艦や飛行場の戦闘機を狙った。米軍側は2403が戦死、1178人が負傷した。民間人も約70人が巻き込まれ死亡、250人以上の負傷者が出た。